【国立新美術館】『テート美術館 - YBA&BEYOND 世界を変えた90s 英国アート』

アイティーエル株式会社では、一人でも多くの方が美術館や博物館を訪れるきっかけとなるべく、2020年7月より【ミュージアム・レポート】を開始いたしました。
今回は、国立新美術館にて開催中のテート美術館のコレクションを中心に、1990年代後半から2000年代初頭までの英国で起こったアートの革新を辿る大規模展『テート美術館 - YBA&BEYOND 世界を変えた90s 英国アート』をご紹介します。

「テート美術館 ― YBA & BEYOND 世界を変えた90s 英国アート」国立新美術館、2026年、展示風景

本展覧会は、1980年代後半から2000年代初頭にかけて制作された英国美術に焦点を当てる企画です。
サッチャー政権時代(1979〜90年)を経験して緊張感漂う英国社会では、既存の美術の枠組みを問い、作品の制作や発表において、実験的な試みをする作家たちが数多く登場しました。
当時「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト(YBA)」と呼ばれた作家たち、そして彼らと同時代のアーティストたちは、大衆文化、個人的な物語や社会構造の変化などをテーマとし、絵画、彫刻、写真、映像、インスタレーションなど多様な手法を用いて独創的な作品を発表してきました。
90年代の英国アートは、当時の文化全般に大きな衝撃を与え、今日のコンテンポラリーアートにも色濃く残っており、本展覧会ではその歴史的な熱量と変革のダイナミズムを体感できる貴重な機会でもあります。
会場では、世界のアート史に名を刻むアーティストの作品が一堂に集結し、約60名の作家によるおよそ100点の作品を通じて、90年代の英国美術の革新的な創作の軌跡を検証します。

YBAとは?

「テート美術館 ― YBA & BEYOND 世界を変えた90s 英国アート」国立新美術館、2026年、展示風景
手前ダミアン・ハースト作品《後天的な回避不能》1991年、テート美術館蔵

1988年8月、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで学んでいたダミアン・ハーストは、ロンドン東部の倉庫街で学生や卒業生の作品を発表する展覧会「フリーズ」展を企画しました。
ハーストや同世代の作家たちは、発表の機会を積極的に開拓させ、既存の美術世界の枠組みを大胆に壊して、素材、テーマ、展示方法まで実験的な試みで世界を驚かせました。
1992年に『アート・フォーラム』誌上で美術史家のマイケル・コリスは、彼らを「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト(YBA)」と呼び、サーチ・ギャラリーで開催された同名の展覧会により、YBAという言葉は一般に広がっていきました。
YBAの作家たちの自由な活動によって、90年代の英国のアートシーンは世界的な注目を集めるようになったのです。

章紹介

本展は、UKカルチャーが溢れた黄金期の息吹を感じながら、90年代の英国美術の独自性を6つのテーマを通じて検証し、 各章をつなぐ重要な作品を 「スポットライト」 として紹介します。

序章 フランシス・ベーコンから ブリットポップへ

「テート美術館 ― YBA & BEYOND 世界を変えた90s 英国アート」国立新美術館、2026年、展示風景
手前フランシス・ベーコン《1944年のトリプティック(三幅対)の 第2ヴァージョン》1988年、テート美術館蔵

フランシス・ベーコン(1909-92年)は、20世紀美術史において最も重要な画家の一人です。抽象絵画が国際的な展開を 見せた時代に、肉体の表現を徹底して追究し、独自の道を貫きました。1944年に制作された《ある磔刑の基部にいる人物 像のための三部作》(テート美術館蔵)では、獣と人間が混ざり合った生き物が叫んでいる姿を描き、それは発表当時、戦争 の恐怖を映すものとして衝撃をもって受け止められました。その44年後に描いた《1944年のトリプティック(三幅対)の 第2ヴァージョン》でベーコンは同じ主題に向き合い、背景の色をオレンジから血液を思わせる濃厚な赤に変更しました。 東西冷戦が終焉を迎える時代に描かれた本作品は、当時の若い作家たちが、すなわち90年代にロンドンやマンチェスター で発生した音楽ムーブメントであるブリットポップが象徴するような新世代の文化の担い手たちが敏感に感じ取っていた 社会の変化と混迷を象徴的に示しています。

第1章 ブロークン・イングリッシュ: ニュー・ジェネレーションの登場

「テート美術館 ― YBA & BEYOND 世界を変えた90s 英国アート」国立新美術館、2026年、展示風景

1980年代後半、1979年より続いていたサッチャー政権が推進した新自由主 義経済の結果、格差が拡大し、英国社会には揺らぎの感情が広がり、1991年開催された「ブロークン・イングリッシュ」展は時代の空気を捉えたものでした。 そして、こうした状況の中アートシーンに登場した作家たちは、マスメディアや 大衆文化に想を得ながら「英国らしさ」を鋭く批評する視点を表明したのです。
その一人であるダミアンハーストは、《後天的な回避不能》(1991年)で、煙草の 吸殻と灰皿をオフィス空間に置いてガラスケースで密閉し、現代社会において避けることのできない死とは何かを問うたのです。 ハーストの世代を特徴づける積極的に規範を逸脱しようとする姿勢は、1960 年代から活動していたギルバート&ジョージの制作を貫くものでもありました。1980年代後半から90年代にかけてのエイズ危機に直面した彼らは、自らの 身体を露わにすることで性をめぐる政治的な状況に向き合う姿勢を明確にしたのです。 同じ時期、カリブ海地域、南アジア、そして、アフリカにルーツを持つ作家たちもアイデンティティの問題を作品の制作を通じて鋭く捉えるようになっていきました。
ルベイナ・ヒミドは、移民として生きる黒人女性を描き、歴史の中で築かれる関係が現代に生きる人々の生き方や帰属意識をどのように形作るのかを考察しています。

第2章 おおぐま座: 都市のイメージをつなぐ

「テート美術館 ― YBA & BEYOND 世界を変えた90s 英国アート」国立新美術館、2026年、展示風景

1990年代初頭には未完成の建築物が目立ち、また、ジェントリフィケーションにより行き場を失う人が増加しました。 それは若いアーティストたちにとって身近な光景であり、創作の着想源となっていきました。
サッチャー政権の住宅政策とそれによって人々が家を失うことに関心を抱いたレイチェル・ホワイトリードは、ロンドン東部のハックニー地区にあった高層集合住宅の取り壊しを記録した一連の写真作品を制作しました。それは、経済的な 状況下で消滅する存在のメタファーとして、制作から30年以上たった現在においても普遍的な意味を持ち続けています。
ジリアン・ウェアリングの《ダンシング・イン・ペッカム》は、 ロンドン南部のショッピング・センターで作家自身が躍る姿を撮影した映像作品です。公共の場でダンスに没頭する作家、そして、それに困惑したり、無関心だったりする人々の姿は、都市空間におけるパブリックとパーソナルの境界を、 ユーモアを交えて私たちに問いかけています。この章では、 本展出品作のサイモン・パターソンの《おおぐま座》(1992年) が象徴する都市への新たな視点を示す作品を紹介します。

第3章 あの瞬間を共有する: 音楽、サブカルチャー、ファッション

「テート美術館 ― YBA & BEYOND 世界を変えた90s 英国アート」国立新美術館、2026年、展示風景

格差が広がり、不安感が漂う時代において、雑誌や広告のヴィジュアル面での雑多性と訴求力、音楽の解放感、アイデンティティを表現する服飾文化の多様性は、かけがえのない一瞬を捉えようとする若いアーティストたちの意思や社会的なつながりに対する関心と交差し、その関係は1990年代における英国美術の国際的発信力の源となっていきました。
こうした文脈の中で最も重要な作家の一人ジュリアン・オピーは、 1997年から実在の人物たちの写真を用い、シンプルで平面的な肖像 画に取り組むようになりました。とりわけ、ブラーのベスト盤アルバム (2000年に発表)のジャケットデザインは、広告と美術の境界を越え、世界的に知られることになりました。本展出品の《ゲイリー・ポップスター》(1988-99年)は、架空のポップ・アイコンをイメージした作品です。限られた要素によって作られる存在しない著名人のイメージは、「個性を示す情報とは何か」を私たちに問いかけています。
ストリート文化を紹介する雑誌『i-D』や『ザ・フェイス』でロンドンや ベルリンといった都市のクラブシーンを捉えた作品を発表し、注目を集めるようになったヴォルフガング・ティルマンスは、写真のプリントや展示方法においても実験的なアプローチを重ねている作家です。 モデルでユース・カルチャーの象徴的人物であるケイト・モスを被写体にした《座るケイト》やロンドンのクラブで撮影された《ザ・コック (キス)》(2002年)を含めたティルマンス独自の写真インスタレー ションは、見る者に時代の感覚を鮮烈に呼び起こします。
ジェレミー・デラーの《世界の歴史》は、炭鉱労働者の連帯を示すブラスバンドと1980年代後半から90年代にかけて若者たちの間で流行した アシッド・ハウスをフローチャートで結びつけています。展示の度に美術館の壁に描かれるダイナミックかつ精緻に設計されたドローイングは、 音の文化と社会との密接なつながりを改めて気づかせてくれます。 また、アンダーグラウンドの音楽やクラブ・カルチャーに強い関心を持つマーク・レッキーは、既存の映像を組み合わせて編集するサンプ リングの手法を用いて《フィオルッチは私をハードコアにした》を制作しました。
アナログとデジタル、過去と現在、個人的記憶と歴史的な出来事を織り交ぜ、1970年代から1990年代にかけての英国のダンスカルチャーの変遷を扱っています。

第4章 現代医学

「テート美術館 ― YBA & BEYOND 世界を変えた90s 英国アート」国立新美術館、2026年、展示風景

1990年代の作家たちにとって、医学の発展とヘルスケアは大きな関心事の一つでした。 薬への信頼と副作用、身体へのコントロール が行われる医療現場もアーティストたちの主題となっていきました。そして、HIVの感染拡大とエイズによる死者の増加は、一つの病の流行の枠組みを超え、人々の間に恐怖、怒り、抵抗の感情を生み出し、多くの作家たち がこの病との関係から作品を制作しました。
映画監督であり同性愛者の権利獲得を目指すアクティヴィストとしても知られるデレク・ ジャーマンもその一人です。スレード美術学校で絵画制作を学んだ経歴を持つジャーマ ンは1990年から1992年にかけてメディ アにおける同性愛とエイズの表現を考察した44点の絵画シリーズ〈クィア〉を完成させました。HIV感染による神経組織への障害 が顕著になった頃に描かれた《運動失調̶ エイズは楽しい》は、一見鮮やかな色彩をダイナミックに使用した抽象絵画のようです。 しかし、よく見ると画面には作品タイトルと 同じ文言がはっきりと刻まれています。そのユーモアを交えたメッセージには、エイズに関連した同性愛嫌悪に直面したジャーマンの抵抗が示されているのです。

第5章 家という個人的空間

サラ・ジョーンズ《ダイニングルーム(フランシス・プレイス)Ⅰ》1997年、テート美術館蔵

私的な空間を政治的な場と捉えた作家たちにとって、家族関係や個人のアイデンティティも考察すべき重要な問題であり、家庭の風景に潜む暴力や人間関係のひずみ、そして家父長制が個人を抑圧するジェンダーバイアスに正面から向き合う作品は、現代の私たちにも強い共感と深い内省を促すものとして存在しています。
性に関する規範に疑問を呈し、執筆活動、メディアへの出演も行っているグレイソン・ペリーは、子ども時代に両親や継父との関係で苦しみ、そうした経験に関連する作品を数多く制作してきました。陶製の花瓶の表面に装飾を施した《私の神々》では、児童虐待など現代イギリス社会における身近でありながら陰惨なドラマを扱っています。
サラ・ルーカスもジェンダーやセクシャリティの既成概念に問いを投げかける作品を発表している作家です。《煙草のおっぱい(理想化された喫煙者の椅子Ⅱ)》は、煙草を集めて作った球体に黒いブラジャーを着せ、それは女性の上半身をはっきりと想像させます。作品タイトルの「おっぱい(tits)」は、当時のタブロイド紙に頻繁に登場し たスラングであり、性の消費とステレオタイプに対する痛烈な皮肉を込めています。

第6章 なんでもないものから 何かが生まれる:身近にあるもの

「テート美術館 ― YBA & BEYOND 世界を変えた90s 英国アート」国立新美術館、2026年、展示風景

1990年代の多くのアーティストは物質文化に強い関心を持ち、日常生活で目にする脆弱で儚いものを作品の素材として積極的に取り入れました。こうした取り組みは、1980年代までのコンセプチュアル・ アートがミニマルでスケールの大きなものに注目し たことに対する反動でもあり、そのアプローチでは現代生活の微妙なニュアンスを捉えきれないと考えたのです。
鮮やかな色彩が目を引くマイケル・クレイグ=マー ティンの《知ること》は、見慣れたものを異なる視点で見ることを促す絵画作品です。はしごは消火器より小さく、さらに消火器は懐中電灯より小さく描かれるなど、家庭用品を実際の大きさとは逆転した大きさで配置しています。クレイグ=マーティンはロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで長く教巧を執り、 YBAの作家たちにとって指導者的な役割を果たしました。既成概念を疑う姿勢を重視する制作プロセスは、その教え子の世代に大きな影響を与えたのです。
トレイシー・エミンの《モニュメント・バレー(壮大なスケール)》は、作家が1994年に当時恋愛関係にあった作家でキュレーターのカール・フリードマンと 米国を旅した際に撮影された写真作品です。エミンは祖母から受け継いだ布張りの椅子に腰かけ、本を読んでいます。エミンは親密な人間関係とそれが残すものを用いて、その価値を作品の主題としているのです。

最後に

コーネリア・パーカー《コールド・ダーク・マター:爆発の分解イメージ》1991年、テート美術館蔵

1990年代の英国は、サッチャー政権下の社会的緊張や文化の変容と深く結びつき、政治・経済・文化の面で大きな変革を経験した時代でした。そうした社会状況のなかで、多くのアーティストたちが新たな表現や探求に挑戦していきました。
本展覧会では、英国の歴史の一時代を従来の美術史的な枠組みを越えて掘り下げ、英国各地で展開されたアーティストたちの活動とその成果を一つの物語として描き出しています。
変化に富む英国社会の中で生まれた作品や作家の精神の神髄に触れる機会と同時に、変化の著しい現代においてもなお、この時代の芸術の重要な意味を探してみてはいかがでしょうか。

【情報】

テート美術館 - YBA&BEYOND 世界を変えた90s 英国アート
会期:2026年2月11日(水)〜5月11日(月)
会場:国立新美術館 企画展示室2E
休館日:毎週火曜日 ただし2026年5月5日(火・祝)は開館
時間:10:00~18:00 毎週金・土曜日は20:00まで
        ※入場は閉館の30分前まで
ホームページ:https://ybabeyond.jp/